静岡を巣立つ球児たち

2021年3月31日 (水)

静岡を巣立つ球児たち2021~野ヶ本英典(磐田東→近畿大)

 静岡を巣立ち大学でプレーを続ける注目球児を紹介する企画。第3回は近畿大に進学する大型左腕・野ヶ本英典(磐田東)です。

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04011_20210401102201 ★才能の開花
 全力で腕を振り抜いた夏だった。190センチの長身から投げ込むストレートは最速139キロをマーク。高校入学後、期待され続けてきた左腕が3年春から夏にかけて急成長を遂げていた。
 転機は2年夏にベンチを外れたことだったという。
「2年夏は大会前にギリギリまで遠征に連れていってもらっていたんですけど、最終選考でメンバーから落とされて。このままではダメだって思いました」
 小学3年生から始めた野球。学童の「相良スワローズ野球スポーツ少年団」、中学の「小笠浜岡シニア」を通じ、いつも身長は同学年の選手に比べて飛び抜けて大きかった。一方で体が堅く、そのポテンシャルを十分に生かしきれていなかった。
 高校2年秋から取り組んだのが柔軟性の強化だった。
 山内克之監督(前監督)からアドバイスをもらい、風呂上がりのストレッチはもちろん、時間があれば常に体をほぐした。すると、2年冬が過ぎた3年春から球速が伸び始める。
「投げる際の足の歩幅が一歩半くらい伸びました。二俣(翔一)のキャッチングを見ていても、球が伸びていることを感じました」
 球速が上がることで試合中に爪が割れることもあったが、「それも指にかかっている証拠」と前向きにとらえた。
「山内監督からは『指にかかりすぎてリリースでピチピチ聞こえるぞ』と言われました。でも『いいことだ』ともアドバイスをもらったので、割れた爪はマネキュアで固めたりして投げていました」
 
★悩み抜いて決断した夏
 だが、初めてエースナンバーを背負った3年夏、思わぬアクシデントに見舞われる。
 2回戦の掛川西戦。3回途中に突如、連続でボールがすっぽ抜けた。ヒジが痺れる。それまでの野球人生で味わったことのない感覚だった。異変に気付いた二俣がマウンドに駆け寄って「どうしたんだ? 球が全然違うぞ」と心配すると、野ヶ本は「ヒジがヤバイかも」と話し、次の回から交代した。
 それでも野ヶ本は「仲間のために投げたい」と4回戦の常葉大菊川戦に照準を合わせた。
「病院の先生からは大学で続けたいのなら、注射を打つのは止めた方がいいって言われて。本当に悩んで……。3年間一緒にやってきた仲間と戦う最後の夏なので、正直投げたいという気持ちもありました」
 逡巡を繰り返した野ヶ本。最終的に注射を打つことはなく、球場に向かった。
「ヒジをテーピングで巻いてもらい出来る限りのことはしました」
 しかし、球場入りしてキャッチボールすると、塁間の距離しか球が届かなかった。
「それで投げるのは止めようと思いました。逆にこれで投げたら、チームに迷惑をかけてしまうので仲間を信じました」
 結果、1対4で敗戦。この夏を最後に勇退する山内監督の最後の試合となった。
「高校に入って2年間は伸び悩みましたが、監督には1年のときからフォームやトレーニング方法など、たくさんのことを教えてもらいました。最後は優勝で送ることができませんでしたが、大学で頑張り、今度は神宮球場に監督を招待したいです」

04012 ★ドラフト1位を目指す
 卒業後は近畿大に進学する。夏の大会後、これまで以上に体の柔軟性を高めた。ヒジの故障も少しずつ癒え、大学での飛躍を誓う。狙うは4年後のプロ入りだ。
「ドラフト1位でプロに行きたいです。中学のときから一緒にやってきた二俣には負けていられないので。そのためには大学で150キロを出すことが通過点だと思っています」
 高校時代に支え合ったチームメートや恩師のために、必ず夢を実現する。 
 


山本幸司監督からの贈る言葉

高校3年間で安定感が出てきました。ですが、まだまだ大きく伸びる選手。まずは大学で地道に体を作り、社会人やプロの世界を目指してほしいです。

■野ヶ本英典[のがもと・ひでのり]投手/磐田東/190cm90kg/左投左打
2002年6月1日生まれ、静岡県牧之原市出身。小学3年時に「相良スワローズ野球スポーツ少年団」で野球を始める。中学時代は「小笠浜岡シニア」に所属し、3年春に関東大会出場。高校入学後、1年秋から登板。3年夏はエースを務めた。卒業後は近畿大に進学する。

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2021年3月30日 (火)

静岡を巣立つ球児たち2021~小林亮太(清水桜が丘→皇學館大)

 静岡を巣立ち大学でプレーを続ける注目球児を紹介する企画。第2回は皇學館大に進学する好遊撃手・小林亮太(清水桜が丘)です。

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★中学の全国大会での衝撃
 2018年10月20日。秋季東海大会に初出場した清水桜が丘は岐阜第一と対戦した。9回表が終わり、4対2でリード。二塁を守っていた小林は「このまま勝てるんじゃないか」と期待感を抱き、守備位置についた。しかし、9回裏に同点に追いつかれると、延長11回の末にサヨナラ負け。ダイムスタジアム伊勢で(三重)で悔し涙を流した。
「打つ方では3打数無安打。今振り返ると、ただ試合に出ていただけ。何もできなかったです」
 柔らかいグラブさばきにシャープなスイング。さらに、50m6秒前半の脚力を持ち、走攻守の三拍子が揃う小林。その原点は小中時代にある。
03301_20210330143201  野球を始めたのは9歳のとき。「静岡ベースボールボーイズ」に入団し、東海大一の主砲として甲子園で活躍した経験を持つ羽山忠宏監督から指導を受けた。
「羽山監督はバッティングの方だったので、練習の半分以上はバッティング。ひたすら振り込んだことで力がついたと思います」
 その後、東海大静岡翔洋中に進学。技術も心も大きく成長した。
「守備に関しては先輩の高柳迅さん(現名古屋商科大)の影響が大きかったです。高柳さんの真似をしているうちに技術が上がっていったと思います」
 中学2年夏。そんな小林の意識を変える大きな出来事があった。2年夏の全国大会準々決勝で宇ノ気中(石川)と対戦。相手のバッテリーはその後、星稜で全国準優勝を成し遂げる奥川恭伸(現ヤクルト)、山瀬慎之助(現巨人)だった。
「自分はベンチから見ていただけですが、2人は見たことのないすごいレベルで。全国に行くと、こういうチームと戦っていかないといけないんだって、野球に対する価値観が変わりました」
 その後、小林は2年秋からレギュラーとなった。3年春の全国大会は「たまたまケガ人がいたので」と謙遜するものの、4番打者として出場した。

03302 ★最後までやり切ることをテーマに
 清水桜が丘に入学すると、1年夏から起用された。秋にはレギュラーとなり、県準優勝、東海大会出場に貢献した。
 2年秋からは主将を務めた。だが、秋は中部地区大会の敗者復活戦で逆転負けを喫し、県大会出場を逃した。
「負けた試合は最後、自分たちの甘さが出てしまいました。その反省から冬は何事も最後までやり切ることをテーマに全力で取り組みました」
 ティー打撃やトレーニングなど苦しいメニューも、最後まで全員で歯を食いしばってやり遂げた。主将として小林には春に向けてチームが仕上がっていく実感があった。
 
★伊勢に導かれた男03303
 新型コロナウイルスの影響で春、そして夏の甲子園大会が中止となった。それでも休校期間中は部員の気持ちが切れないように、「LINE」を使って常にコミュニケーションをはかった。そして、県独自の代替が決まったときは「秋の悔しさをぶつける場所を作っていただけた」と素直に感謝した。3回戦で沼津東に敗れたものの、チームは秋になかった粘り強さを発揮。「高校野球をやりきった」という達成感が得ることができた。
「個人としては3試合で2安打しか打てず物足りなかった夏でした。でも、コロナの期間を経て、自分たちが成長したことも分かった大会で、開催していただけたことに感謝しています」
 卒業後は三重県の皇學館大に進学する。ホームグランドは2年秋に悔し涙を流したダイムスタジアム伊勢となる。
「もう絶対に来ることはないと思っていましたが、皇學館大のホームグランドがダイムスタジアムだと知ったときは縁を感じました」
 大学での目標は全国大会に出場し、明治神宮球場でプレーすること。同時に、教員免許を取得し、いずれは高校野球に携わりたいという夢を持つ。
 伊勢に導かれた男の新たな挑戦が始まる。


曲田雄三監督からの贈る言葉

ガムシャラに野球を楽しんでいた2年時の姿と、経験と実績を背負いながらチームを導いた3年時の姿。その両方の小林を見ることができて幸せでした。大学では野球はもちろんのこと、人間的に大きくなり、いつの日か指導者として母校に戻ってくる日があってほしいと願っています。

■小林亮太[こばやし・りょうた]内野手/清水桜が丘/174cm72kg/右投右打
2003年2月18日生まれ、静岡県静岡市出身。9歳のときに「静岡ベースボールボーイズ」で野球を始める。東海大静岡翔洋中では3年春にレギュラーで全国大会出場。清水桜が丘では1年夏からベンチ入り。秋の東海大会出場に貢献した。2年秋から主将。3年夏は3回戦で敗退した。卒業後は皇學館大に進学する。

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2021年3月29日 (月)

静岡を巣立つ球児たち2021~内海壮太(御殿場西→法政大)

 高校3年生にとっては旅立ちの季節となりました。今日から3日間に渡り、静岡を巣立ち大学でプレーを続ける注目球児を紹介します。第1回は法政大に進学する大型スラッガー・内海壮太(御殿場西)です。

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★名選手の父から野球の基礎を学ぶ
 その打球は大きな放物線を描き、御殿場西グランドのレフトフェンスを越えていった。はるか遠くに消えた打球の行方を気にしながら森下知幸監督は思わず、こう口にした。「エグイよね」。
 2月下旬、例年なら野球を続ける3年生は進学先のチームに合流している時期。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響で3月中旬以降から練習に参加する選手がほとんど。内海壮太も後輩に混ざり、練習を重ねていた。
 紅白戦で名将を唸らせる一発を放ち、両手を広げながらゆっくりとダイヤモンドを回る内海。そこには自信が漲っていた。森下監督は「ここに来たときは大人しくて、弱々しい子だったんです。それが今ではいい意味で図々しくなって。3年間で技術的にも性格も変わったね」と教え子の成長を喜ぶ。  
 神奈川県横浜市で生まれた内海が野球を始めたのは小学3年夏。父・将人氏の影響だった。
 将人氏は日大三島出身。法政大では稲葉篤紀氏(現侍ジャパン監督)とクリーンアップを組み、社会人野球の東芝でも活躍した名選手だ。
「父からは野球の基礎的なことを教わりました。それが今でも生きていると思います」
 小学生時代は「横浜緑リトル」に所属して捕手で活躍。その後、中学1年冬に父の転勤で広島に転居し、「広島ボーイズ」に入団した。
「広島は気が強そうな人が多いイメージを持っていましたが、すぐに慣れることができました」  
 古葉竹識氏(元広島監督他)の弟・福生氏が監督を務める「広島ボーイズ」で3年春にはレギュラーとして全国大会出場。ただ、打順は7番。大柄だったが、そこまで目立っていた選手ではなかった。

03291_20210329132901 ★「森下野球」に惹かれて広島から御殿場へ
 高校は親元を離れて御殿場西へ。将人氏の高校時代の恩師が森下監督という縁で結ばれた。
「父から森下先生のことを聞いて、練習を見に行ったら、すごい活気があるなって思って決めました」
 そんな内海の才能が開花したのは遅い。1年秋から公式戦に出場したが、結果が出ない。本人は「何となく出させてもらっているというか。自覚が足りなかったと思います」と振り返る。森下監督や周囲から指摘されると萎縮してしまう。殻を破りきれなかった。
 火がついたのは2年夏。ベンチ入りのメンバーから外れたことがきっかけだった。
「ベンチから外れて、今まで何もしてこなかったんだなっていうのが自分で分かりました。それから自分たちの代になり上位打線を打たせてもらって、初めて自覚が出て『やらなきゃいけないな』っていうふうになっていきました」
 単にやらされるのではなく、自分で考えて行動する。昨年春の休校期間中も黙々とバットを振った。

03292 ★3年夏の悔しさを糧に大学へ
 県屈指のスラッガーとして臨んだ高校最後の夏。3回戦で最速148キロ左腕・髙田琢登を擁する静岡商と対戦する。第1打席は三振。第2打席はライトフライ。そして第3打席は2死一、三塁のチャンスで一発が出れば同点だった。しかし、いい角度で上がった打球はスタンドに届くことなく、レフトフライに終わった。
「あそこで一本を打てなかったのは実力だと思います。そこを糧にして成長していきたいです」
 卒業後は将人氏の母校・法政大に進む。夏の大会後、体重が8キロアップ。昨年夏とは見違えるほどの堂々とした体を手に入れ、大学に向けて準備してきた。
「バッティングだけでなく、走攻守でアピールしていきたいと思います。どういう使われ方をしても結果を残せるようなプレーでチームに貢献していきたいです」
 天性の飛ばす能力を生かし、大学でブレイクする。


森下知幸監督からの贈る言葉

中学のときは7番くらいを打っていて自信を持っていない選手でした。ようやく高校2年くらいから自分の可能性に気付いてきました。(常葉)菊川時代を振り返っても、ここまでの長距離打者はいなかったです。大学では大きく成長してほしいですね。

■内海壮太[うつみ・そうた]内野手/御殿場西/184cm85kg/右投右打
2002年11月3日生まれ、神奈川県横浜市出身。小学3年時に「横浜緑リトル」で野球を始める。中学時代は「広島ボーイズ」に所属し、3年春に全国大会出場。高校入学後、2年秋からレギュラーとなる。3年夏は3回戦敗退。高校通算9本塁打。卒業後は法政大に進学する。

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2020年3月31日 (火)

静岡を巣立つ球児たち2020~鈴木健介(松商学園→専修大)

 『静岡高校野球』編集部が中学時代から追いかけてきた浜松市出身の鈴木健介が専修大に入学します。

 舞阪中時代から大型右腕とし03311て注目を集め、高校は松商学園(長野)へ。本人は3年間を振り返り、「自分で考えて練習する大切さを学びました」と話します。 下級生時は膝の故障に苦しみましたが、地道に努力を重ねて3年夏に145キロを計測。プロのスカウトからマークされる存在になりました。
 鈴木が選んだ進路は東都大学リーグの名門・専修大。「高校時代の先輩で2学年上の青柳真珠さんからも話を聞いていましたし、環境が良くて野球に集中できると思いました」
 専修大といえば強力打線のイメージが強いですが、投手陣もハイレベル。その中で鈴木は「エースを目指していきたい」と2月中旬にチームに合流後、ブルペンで投げ込みを始めているそうです。
 舞阪中時代、校長として鈴木を指導した藤田裕光氏(現入野中校長)も「中学から高校に行くときも楽しみだったが、高校から大学に進む今回はもっと楽しみ。4年間で成功体験をたくさん積んで、スケールの大きな選手になってほしい」と期待を寄せます。
 4年後は150キロ以上を出して、プロへ。まだまだ伸びしろを秘める大器が、大学野球のスタートラインに立ちます! 

◆鈴木健介[すずき・けんすけ]投手/松商学園/184cm80kg、右投右打
2001年4月12日生まれ、静岡県浜松市出身。小学時代はソフトボールをプレー。舞阪中ではエースで活躍する。松商学園では3年夏に背番号11ながら佐久長聖戦で7回無失点の快投を見せた。この春、専修大に入学する。

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2020年3月 8日 (日)

静岡を巣立つ球児たち2020~森田健介(静岡市立→明治大)

 静岡市立の2枚看板の一人、森田健介が明治大法学部に指定校推薦入試で合格。硬式野球部に入部するというニュースが入ってきました!

 高校では1年夏から登板。左腕の渡邉幹樹とともに、チームを引っ張りました。持ち味は球のキレ味。球速は130キロ台前半も、球持ちが良く、回転数の多いストレートで打者を仕留める本格派です。
 明治大を強く意識したのは2年秋の「オータムフレッシュリーグin静岡」。明治大の選手と対戦し、「こういうところでやってみたい」と憧れを抱いたそうです。
03081  高校3年間は決して順調ではありませんでした。フォームを試行錯誤し、イメージ通りのストレートが投げられない時期もありました。それでも3年夏前に復調。3回戦の常葉大菊川戦では2回途中からマウンドに上がり、6回2/3を無失点に抑えました。
「高校ではいい思いもしましたが、苦しんだことの方が多かったです。大学ではその経験を生かし、神宮球場で登板したいです」
 2月22日、23日には明治大硬式野球部の練習に参加。「同学年で春日部共栄からくる村田(賢一)君がすごかった」と刺激を受けた様子です。あらためて今月19日に入寮するとのこと。独特のストレートを磨き、競争を勝ち抜いてほしいです。(編集部・栗山)

◆森田健介[もりた・けんすけ]投手/静岡市立/175cm78kg、右投右打 
2001年5月22日生まれ、静岡県函南町出身。函南中では3年夏に4番打者で全国大会出場。静岡市立入学後、1年夏から登板。秋は県ベスト4入りに貢献した。卒業後は明治大に進学する。

静岡市立・安井信太郎監督からの贈る言葉

名門の野球部に入り、苦労することもあると思いますが、何とか食らいついて活躍してほしいです。何事も努力できる選手ですので楽しみです。神宮球場で投げる姿をぜひ見たいですね。

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2020年3月 2日 (月)

静岡を巣立つ球児たち2020~和田聖生(飛龍→仙台大)

 多くの高校で3年生が卒業式を迎えました。おめでとうございます!
03022  その中で先日、仙台大への進学が決まった飛龍の和田聖生に会ってきました。
 「御殿場ボーイズ」時代から注目してきた遊撃手。高校では2年秋からレギュラーをつかみ、好守で存在感を発揮しました。ですが、本人は悔しさの残った高校野球人生だったと語ります。
 3年夏は初戦で藤枝明誠と対戦。和田は「3番ショート」で出場します。前半は3対0でリードする展開。しかし、6回の守備でした。三遊間の打球を捕りにいった際に、右足を肉離れ。そのままベンチに下がりました。その後、チームは敗退。「やっていたつもりだったけど、トレーニングやストレッチが足りなかった。一生悔いが残ると思いました」と振り返ります。このままでは終われないと、大学でプレーすることを決意。小林能知副部長の母校でもある仙台大に合格しました。
 仙台大は昨年のドラフトで育成指名選手を2人輩出。仙台六大学リーグでは、東北福祉大と並ぶ強豪です。部員も約200人と大所帯。和田は「まず肩をアピールして試合に出場したい」と意気込みます。4年後の目標はプロ、または社会人。「いずれはボーイズの県選抜で一緒だった森敬斗(横浜DeNA)と同じ舞台で戦いたい」と宣言。東北の地で大きく羽ばたきます。(編集部・栗山)

03021 ◆和田聖生[わだ・せな]内野手/飛龍/165cm68kg/右投左打 
2001年6月17日生まれ、静岡県御殿場市出身。小学1年時に「御殿場シャークス」で野球を始める。原里中では「御殿場ボーイズ」でプレーし、投手兼遊撃手で活躍。3年時には「静岡県選抜」の主将を務める。飛龍入学後、2年から遊撃のレギュラー。卒業後は仙台大でプレーを続ける。

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2019年3月29日 (金)

静岡を巣立つ球児たち2019~大代航太郎・下

 オフシーズン企画「静岡を巣立つ球児たち」。今年も「静岡高校野球」編集部が、卒業後も野球を続けることが決まっている高校3年生たちに会いに行きます。
 前回に引き続き、大代航太郎(加藤学園)編です。 「静岡を巣立つ球児たち2019~大代航太郎編・上」はコチラ

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静岡を巣立つ球児たち2019~大代航太郎編・下

★不完全燃焼の夏
 3年の夏前、大代は打撃の状態を上げていく。この時期、打順は8番だったが、2試合に一本のペースで本塁打を打ちまくった。「ボールが良く見えて、打てる気しかしなかった」と振り返る。
 そして絶好調で迎えた夏の大会初戦、大代は「8番ライト」で出場する。2打席目にセンター前安打を放ち、チームも勝利。続く相手はプロ注目の水野喬日を擁する湖西だった。
「甘い変化球を狙っていたのですが、思った以上に球が伸びていて、スライダーにもキレがありました」
 水野相手に第1打席、第2打席ともに空振り三振。第3打席の一塁ゴロを挟み、迎えた9回裏二死。2-0から2球ファウルで粘ったものの、最後も空振り三振に終わった。

★芸術よりも野球を選ぶ
 大代が高校卒業後も野球を続03291けようと思ったのは2年の秋頃だった。それまでの希望進路は芸術系の専門学校。幼い頃から漫画タッチの絵を描くことが好きで、高校では芸術系のコースを選択していた。だが、野球を諦めることはできなかった。
「2年の夏が過ぎ、あと1年しか野球ができないってなったときに、もっと野球をやりたいって思うようになりました」
 3年夏が終わり、セレクションを受けたのは東都大学リーグに所属する東京農業大だった。
「やるなら中途半端ではなく、レベルの高い東都のチームを考えていました」
 セレクションでは持ち味の打撃力を発揮する。バッティング練習で2本塁打を放つと、実戦形式でも安打を放つ。すると、すぐに合格の知らせが届いた。

★大学では本塁打量産を目指す
 3年間、結果が出ずに苦しんだこともあった大代。そんな中、加藤学園で学んだことは「心」だった。
「技術よりも、私生活での取り組み方、人への気遣い、礼儀を学びました。この3年間で人として変われたと思います」
 人間的にも一回り大きくなった大代は大学で、さらなる高みを目指す。
「毎日コツコツと練習をして、ホームランをたくさん打てる選手になれたらと思っています」
 最後に現役球児へのメッセージを聞いた。
「例え1年生のときにダメでも、努力を積み重ねていけば、2年生、3年生で巻き返すことができます。高校の3年間は長いようで短いので、1日1日を大切にして下さい」
 静岡のスラッガーから東都のスラッガーへ。大代は大きく羽ばたく。

米山学監督からの贈る言葉

この3年間、いいときばかりではなく、悔しい思いもした中で最後まで一生懸命にやってくれました。練習も良くやり、コイツを何とかしたいと思わせる人間性が魅力です。パワーのある打撃を武器に、大学ではチームに貢献する活躍をしてもらいたいです。

■大代航太郎[おおしろ・こうたろう]外野手/加藤学園/170cm82kg/右投左打
2000年7月2日生まれ、静岡県静岡市出身。小学3年時に「清水ファイターズ」で野球を始める。中学時代は「静岡蒲原シニア」でプレーし、3年夏はエースで活躍。加藤学園では1年春の公式戦から出場した。高校通算23本塁打。卒業後は東京農業大に入学する。

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 帰り際、「もうイラストへの未練はないの?」と伺うと、「それは趣味程度にします」と笑って答えてくれた大代。野球にかける強い思いを感じました。大学でレギュラーを掴み、チームを2部から1部に導いてください。
 今回で『静岡を巣立つ球児たち2019』は最終回となります。みなさんの全国での活躍を期待しています!

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2019年3月28日 (木)

静岡を巣立つ球児たち2019~大代航太郎・上

 7年目を迎えたオフ企画、「静岡を巣立つ球児たち」。「静岡高校野球」編集部が卒業後も野球を続けることが決まっている高校3年生たちに会いに行きます。第3回は高校通算23本塁打を放った強打者・大代航太郎(加藤学園)。卒業後は東京農業大に進学する大代のインタビューを2回にわたってお届けします。

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静岡を巣立つ球児たち2019~大代航太郎編・上

03281父との厳しい練習の乗り越えて
 幼い頃から父・茂雄氏(現清水東監督)の影響でソフトボールをプレーした大代。「清水ファイターズ」に入団したのは、島田市から静岡市に引っ越した小学3年生のときだった。4年生と5年生のときは父の監督の下でプレー。県大会出場は叶わなかったものの、6年時にはエースで活躍した。
「お父さんの監督の時はけっこう大変でした。自分にだけ厳しくて。小学5年生のときには辞めたいって思ったこともありました」
 今では、野球の基礎を教えてくれたと感謝するものの、その頃は「なんで自分だけ」と悩むこともあった。
「グランドでも家でもいつも一緒でしたし…(笑)。でも、あの2年間で鍛えられたことは間違いです。特に試合で負けていたとしても最後まで諦めない姿勢は学びました」
 父との厳しい練習と同時に、大代を成長させたのが剣道だった。大代は野球と同時に、小学3年生から剣道も始めている。
「松坂大輔さん(現中日)も小さい頃にやっていたらしくて。お父さんから『1対1の勝負の勉強になるから』と勧められて、中学2年までやっていました」
 競技は違えど、野球もピッチャーとバッターで1対1で勝負することは同じ。戦う姿勢を培うには剣道が最適だった。
 中学は「静岡蒲原シニア」へ。3年間、楽しかった思い出の方が強いと振り返る。
「蒲原シニアの方針としては、小技を使わないで、どんどん振っていく感じなので。それが自分に合っていたと思います」
 豪快にフルスイングする打撃力を身につけた一方で、3年夏はエースとしてマウンドに上がった。

1年春からベンチ入り
 高校は「早く自立したい」と、寮生活を考えていた。そんなとき、話があったのが加藤学園だった。
 入学すると、その迫力あるスイングが米山学監督の目に留まり、1年春の県大会で「背番号13」でベンチ入りする。2回戦の浜松修学舎戦、「8番ライト」で先発出場した。しかし、2打数無安打。レベルの差を感じたという。
「ピッチャーの変化球のキレが中学とは全然違いました」
 技術面とともに苦労したのが体力面だった。高校で練習量が増え、体重が激減する。食べても食べても維持できず、中学のときに88キロあった体重が一時期70キロまで落ちた。当然、持ち味のスイングに影響し、打球が飛ばない。2年夏はベンチに入ることすらできなかった。
 そんな自信を失いかけた大代を救ったのは米山監督だった。
 「自分に合ったスイングを見つけよう」とプロ野球選手の動画を集め、それを参考にするように大代に提案した。
 柳田悠岐(ソフトバンク)、筒香嘉智(DeNA)…。同じ左の強打者の良いところを取り入れ、本来のスイングを取り戻していく。

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「静岡を巣立つ球児たち2019~大代航太郎編・下」は近日中に更新します! 

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2019年3月25日 (月)

静岡を巣立つ球児たち2019~鈴木颯人編・下

 オフシーズン企画「静岡を巣立つ球児たち」。今年も「静岡高校野球」編集部が、卒業後も野球を続けることが決まっている高校3年生たちに会いに行きます。
 前回に引き続き、鈴木颯人(掛川東)編です。 「静岡を巣立つ球児たち2019~鈴木颯人編・上」はコチラ

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静岡を巣立つ球児たち2019~鈴木颯人編・下

★3イニングで終わった夏…
 エースの座を目指し、2年の冬場は鴨藤忠博監督のアドバイスでフォームの修正に励んだ。
「もともと投げ方に癖があったのですが、体全体を使えるフォームになったと思います」
 上半身と下半身のバランスが良くなり、腕の振りも速くなった。
 しかし、3年春にヒジを痛める。夏の大会前に復帰し、練習試合では最速となる135キロをマークしたものの、一度もエースナンバーをつけることはできなかった。
 背番号10で挑んだ3年夏は、わずか3イニングで終わる。初戦の城南静岡戦は7回途中からマウンドに上がって1安打無失点。2回戦の掛川西戦も2番手で3分の2イニングを無失点に抑えた。
「もっと投げたかったというのはありますが、自分の力不足でした…」
 不完全燃焼に終わった夏をこう振り返る。

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★4年後のプロを目指して
 大学で野球を続けたいと考え始めたのは2年の秋頃だった。「やるからにはレベルの高いところでプレーしたい」と、冬に創価大の練習に参加した。
「創価大は、田中正義さん(現ソフトバンク)、池田隆英さん(現楽天)が、同学年でドラフト1位とか2位で指名されて、どんなチームなんだろうと興味がありました。そういうチームで自分も成長できればと思いました」
 東京新大学リーグに所属する創価大はリーグ通算45回の優勝を誇る強豪。近年は全国大会でも上位に進出している。
 鈴木は練習参加した際、雰囲気の良さにも惹かれた。
「大学って、自由にやっているイメージを持っていたのですが、創価大は全員の意識がすごく高くて。コーチの方も丁寧に教えてくれて、どうしてもココでやりたいと考えるようになっていきました」
 3年夏の大会が終わると、すぐに創価大のセレクションに向けた準備を進めた。 
 8月のセレクションには、東邦(愛知)、遊学館(石川)、敦賀気比(福井)など、甲子園常連校の選手もいて緊張感もあったが、練習の成果を発揮。自信のあるコントロールをアピールした。
「すごい高校から来た選手ばかりなので自信はなかったのですが、受かってくれって思っていました」
 見事合格が決まると、創価大の佐藤康弘コーチからはこんなアドバイスを受けた。
「ウチには鈴木君よりすごいピッチャーがたくさんいるから下級生で活躍するのは難しいかもしれない。でも、焦ることなく、体を大きくしていけば、3年生、4年生でチャンスがある。そこに向けて頑張ってほしい」
 3年生の秋から冬にかけて鈴木は、その佐藤コーチの言葉を胸に、体力作りに励んだ。今は「4年後にプロ入りしたい」とはっきりと口にする。
「創価大のチーム目標は日本一なので、それに貢献できるピッチャーになりたいです。その上で、4年生になったら、140キロ台の後半を投げたいです」
  最後に現役球児へのメッセージを聞いた。
「結果が出なくて、落ち込むときにもあると思います。でも、クヨクヨしていたら前に進まないので、努力を続けて下さい」
 小学、中学と決して目立った存在ではなかった。高校でも故障に苦しんだ。決してエリートコースを歩んできたわけではないが、コツコツと努力を重ねる心の強さは誰にも負けない。全国トップレベルの創価大で花を開かせる。

鴨藤忠博監督からの贈る言葉

高校から投手となり、まだまだこれから伸びていく選手です。レベルの高い大学に入学し、苦労も多いと思いますが、ひたむきに努力を続けて下さい。大学で成長して、神宮球場のマウンドを踏んでほしいと思っています。

■鈴木颯人[すずき・はやと]投手/掛川東/174cm67kg/右投右打
2001年3月14日生まれ、静岡県掛川市出身。小学2年時に「桜木野球少年団」で野球を始め、6年時に「黒潮旗」で県優勝。桜が丘中では内野手として全国ベスト8進出に貢献する。高校入学後、投手となり、2年春の県大会で公式戦初登板。卒業後は創価大に入学する。

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 昨年の4月、掛川東の左腕・野元優作を目当てに見に行った練習試合。その日の2試合目に登板したのが鈴木でした。当時のスコアにはこんなメモが残っていました。「腕がぶっ飛びそうなくらい振れて、ストレートで空振りがとれる。体にバネがあり、大学で伸びるタイプ」。その後、鈴木の進路が気になっていたのですが、創価大で野球を続けると聞いたときにはすごく嬉しく、絶対に「静岡を巣立つ球児たち」で取り上げようと決めていました。3年後、4年後、どんな姿になって驚かせてくれるのか。期待しかありません。次回は加藤学園・大代航太郎編、お楽しみに!

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2019年3月13日 (水)

静岡を巣立つ球児たち2019~鈴木楓人・上

 7年目を迎えたオフ企画、「静岡を巣立つ球児たち」。「静岡高校野球」編集部が卒業後も野球を続けることが決まっている高校3年生たちに会いに行きます。第2回は柔らかいフォームを持つ本格派右腕・鈴木颯人(掛川東)。卒業後は創価大に進学する鈴木のインタビューを2回にわたってお届けします。 

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静岡を巣立つ球児たち2019~鈴木颯人編・上

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小中時代を振り返る鈴木

★漢人友也の存在
 鈴木が野球を始めたのは小学2年生のときだった。兄の影響で「桜木野球少年団」の「元旦マラソン」に参加し、そのまま入団。すると、同級生の顔が一人あった。
「友也がもう先に入っていて、僕が2番目でした」
 漢人友也(常葉大菊川→中京大)。のちに、甲子園に出場する投手だが、当時からその実力は群を抜いていた。
  漢人は4年時から試合に出場。最上級生になると当然のごとくエースとなる。一方の鈴木はショートやサードを守った。6年時には黒潮旗で県優勝、マクドナルド杯では県準優勝を果たした。
 練習で思い出に残っているのは50センチほどの竹の棒を使い、シャドーピッチングを繰り返したこと。「そこで投げ方の基礎教えてもらい、のちのち生きてきました」と振り返る。
 桜が丘中でも漢人がエースを務め、鈴木は主に「9番セカンド」で出場した。3年春に全国大会に出場。ベスト8に進出した。
「練習で友也が投げたときに、打席に立つのが嫌でした(笑)。すぐ三振してしまうんです。球は速いし、迫力もある。変化球も良かったですね」
 体格的にも、漢人の身長が172センチに対し、鈴木は157センチ。歯が立たない手だったが、そんな逸材と出会ったことを感謝する。
「友也がいたから全国に出場できたし、間近ですごいピッチャーを見ることができて、本当に良かったと思います」

★高校から本格的に投手へ
 高校は掛川東に入学。少しずつ身長も伸び、同学年に投手志望が少なかったことで、「ピッチャーをやってみたい」という気持ちが芽生えていく。学童や中学のときに、わずかながらマウンドに上がる機会があったが、「本格的」と言えるものではなかった。
「最初は『どうしてもピッチャーをやりたい』って、深く考えていたわけではありませんでした。監督から『ピッチャーをできるヤツがいるか』と聞かれ、思わず手を挙げてしまった感じでした」
 そんな鈴木を奮い立たせたのは左腕・野元優作の存在だった。
 03131毎年秋に開催される1年生大会。初戦で常葉大菊川と対戦して敗れた。野元は登板したものの、鈴木の登板機会はなかった。
「その頃、優作がどんどん成長していました。自分は体も技術も追いつかなくて、試合に出られないのは当然ですが、やっぱり悔しくて…。そのあたりから、意識が変わっていったと思います」
 野元に負けられない。自分もマウンドに立って投げたい。ライバル心を燃やし、1年冬は下半身を中心とした体作りと同時に、股関節を柔らかくするトレーニングにも取り組んだ。すると、2年春の県大会は背番号19でベンチ入り。準々決勝ではエース・及川遼のあとを受け、3回途中から登板。試合は7回コールドで敗れたものの、4イニングを投げて2安打1失点の好投を見せる。大きな自信と手応えを掴んだ鈴木は、さらなる高みを目指していく。
 ところが、夏の大会を前に、腰に痛みが走る。
「ちょうど、背番号の発表の日でした。18番をもらったのですが、急に痛くなりました」 
 結局、夏の大会はチームはベスト8に進出するも、1試合も投げずに終わった。一方で野元がブレイクする。準々決勝の日大三島戦でリリーフ登板すると、3回から8回を無失点に抑える快投。そのままの勢いで、秋も野元がエースでチームは勝ち進んだ。

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「静岡を巣立つ球児たち2019~鈴木颯人編・下」は近日中に更新します! 

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